この1年ほど、ぼくは戦前に台湾南部の屏東を旅した日記を翻刻していました。
悪筆のため片仮名すら読みづらく判読に難儀したことと、当時の事情がわからないことから、1行解読するのにまる1日かかることも往々で、デジタル化はかなり難渋しましたが、不完全ながらもなんとか翻刻することができました。
この作業に携わってつくづく思ったことは、歴史は残らない(とりわけ、稗史は残らない)ということでした。アーカイブという考え方が欠如していた時代ということかもしれませんし、わざわざ残すほどのものではないと判断されていたこともあると思います。原爆体験といったように、社会的意義や評価が明確なものであればともかく、自身の私的な行動記録は残さないという発想もあるかもしれません。
ところで、今回翻刻した日記には、台湾原住民の興味深い話がいくつか出てきました。
ただ、その内容の詳細や真偽を確認することは非常に難しくなっています。その理由は主にふたつあって、一つは、戦前の台湾のオーラルヒストリーを集めることが、もはや絶望的になってしまったことです。1990年代であれば日本語を母語とした世代がまだまだ活躍していましたが、2010年代後半の現在、台湾ではいわゆる「懐かしい日本語」を聞く機会はほとんどなくなってしまいました。この日記の翻刻に際して台湾を何度も訪れていますが、「レトロ」で知られる新竹の内湾線を訪ねたとき、ここにあるものは実は戦後、1945年以降に設けられたものばかりであることに気づかされ、時代の遠さを実感させられたのでした。
(新竹内湾にて。日本風の建物ですが、こちらは戦後の物件です。)
(霧社事件時に台湾原住民に宛てて書かれた伝単。すべて片仮名で書かれています。)
あともう一つ、当時のほかの記録をあたろうと思ったのですが、なかなか出てこないのです。
確かに台湾原住民は蕃童教育所で日本語教育を受けてはいましたが、その水準は片仮名が読み書きできる程度で、文学なり歌謡なりの自らの記録を残すという水準ではなかったようです(霧社事件当時、台湾原住民に宛てて空中からばらまかれた伝単(チラシ)を見ると、その水準が推測できます)。
実際、当時の台湾原住民の記録は、台湾総督府や日本人の民族学者の調査によるものがほとんどで、たまに「台湾の奇習」と称して面白おかしく書かれているものもありますが、なんとも言えない内容です。
20世紀は近いようで意外に遠い時代であることを実感し、また、当時の記録は真偽を確認しようがないというのが実情だったりするわけです。