Latine Orientales - 東洋のラテン

サラリーマン生活のかたわら、ほんとうは趣味に生きていくはず、だったのですが。
忘不了(ワンプリャオ)−忘れ得ぬ日々 の公開について - from ginseisha

銀聲舎(Ginseisha,Japan)からのお知らせです。

 

Ginseisha,Japanでは、1970年代後半における台湾「観光」の実情を聞き取った記録「忘不了(ワンプリャオ)−忘れ得ぬ日々」を公開しましたのでお知らせします。
内容は、当時の台湾の悪名高い売春観光に関するもので、主に台北・林森路や礁渓温泉の話題が出てきますが、当時の台湾は戒厳令下にあり「共産主義撲滅」や「大陸を取り戻せ」といったスローガンだらけで何かと不自由であったことや、実は特急自強号もスローガンからきていたことに言及しています。なお、最後の追記は2020年に改めて聞き取ったもので、このときに内容を補いました。

ちなみに、「忘不了」というタイトルは、テレサ・テンの歌のフレーズから取ったものです。現在、1995年頃の台湾記録も準備中です。引き続きよろしくお願いします。

 

「忘不了(ワンプリャオ)−忘れ得ぬ日々」はこちらからダウンロードすることができます

 noteにも掲載しています

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ホームページの更新 - from ginseisha

 

コロナウイルス騒ぎでゴールデンウイークの予定がすべて飛んだこともあって、久々にウェブサイトを更新することにしました。

今回はタブレットやスマホでもわかりやすく閲覧できるようにWordpressを導入してみたのですが、サイトは自分自身で一から作ったので、プロの作品と比べると細かなあらが結構目立つのですが、「まあ、いいか」と割り切っています。

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カバラン2600の公開について - from ginseisha

銀聲舎(Ginseisha,Japan)からのお知らせです。

 

Ginseisha,Japanでは、前回の「昭和丙子臺灣屏東之旅」の続編として、1940年(昭和15年)に台湾東部を旅行した和歌山県人の日記「カバラン2600」の翻刻を行いましたのでお知らせします。

当初はリトルプレス形式で発刊する予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響により取材の継続が絶望的になったことから、現段階における原稿をとりまとめたうえでPDFヴァージョン(A4・全8ページ)で公開することといたしました。こちらからダウンロードすることができます

日記の内容は、当時の台湾東部の観光が中心ですが、ところどころに沖縄人の痕跡が見えてきます。礁渓温泉の芸者がほれほれ節を唄っていたことや糸満売りの移民、その他李香蘭の話題そして太平洋戦争の影も見え隠れします。附録は完全オリジナルの宜蘭市の観光案内です。コロナウイルスが終息したのちに宜蘭を旅してみてはいかがでしょうか。

 

海の奥にようやく見えた小粒は、今度は九州や四国となって、新地の遣手婆の如く自分に薄気味の悪い手招きをしているようである。船は門司に着いて人が沢山降り立ちどこかへと散っていった。自分は神戸まで乗る。瀬戸内海は秋風索漠にして波静か。

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「カバラン2600」の刊行について - from ginseisha

 

銀聲舎(Ginseisha,Japan)からのお知らせです。

 

Ginseisha,Japanでは、このたび1936年(昭和11年)に屏東(現:台湾屏東県)を旅行した和歌山県人の日記「昭和丙子臺灣(台湾)屏東之旅」の続編「カバラン2600(仮題)」を2020年度に発行する運びとなりましたことをお知らせします。ちなみにカバランとは台湾東部の先住民の名称で、2600は紀元2600年つまり1940年(昭和15年)を指します。

今回の舞台はカヴァラン・ウイスキーでも知られる台湾宜蘭県。ただ、日記というよりメモ書きに近い形式のため雑多な内容が多いことから取捨選択して取り上げることとしております。

 

※内容を少しだけ紹介いたします。

 ↓↓

宜蘭は南洲公御子息(※西郷菊次郎のこと)が建築した町であり中ではカトリックや天理教の坊主が楽器を鳴らし益々賑やかである。宜蘭近辺は霊泉多く…

 

喜多川は僻地から高野山に出家しその後ツテを頼ってアメリカに渡りその地で出世したが、和歌山に居る頃から読経よりも婦女や小供と戯れることが好きで高僧など務まる訳はないと思っていたが、結局悪癖の末にアメリカを追い出され現在は大阪に居ると云うのだから…

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ニュース和歌山をお読みいただいた皆様へ - from ginseisha

 

2020年1月25日(土)付け『ニュース和歌山』に掲載されている弊団体の刊行物「昭和丙子(昭和11年)台湾屏東之旅」につきまして、現在順次発送の準備を進めております。

 

ご用命の方は、メールフォームのメッセージ欄に「台湾の冊子希望」というメッセージと、「ご連絡先(ご住所・お名前)」をお知らせいただければと思います(弊団体は他にも刊行物を発行しているため、連絡先だけではどの刊行物を送ってよいか判別できないのです)。発送はだいたい平日の夜(毎日ではなく、平日のどこかの曜日)にまとめて作業しておりますので、今しばらくお待ちいただければと思います。

 

なお、この冊子の内容と時代、そして現在の屏東を解説するボランティアも行っております(遠方であれば旅費を頂戴することがあるかもしれませんが、原則として無償です)。もっとも、私は昭和丙子の時代には生まれていませんので、じゅうぶんな説明は難しいかもしれません。そのときは逆に、いろんなことを教えていただければ幸いです。

 

引き続き銀声舎をよろしくお願いいたします。

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生きた証 - memoir

 

2019年も暮れようとしています。

最近のわたくしはギンセイシャの仕事ほったらかしで、正月に亡くなった友人が生前書いていた日記を定期的に読みに行っているのですが、遺族の方から「生きた証」としてなんとか世に出すことはできないか、というお話を伺いました。

 

ところで、わたくしは出版をやっていることもあってか、「生きた証」を出版というかたちで残したいという方の相談を受けることが結構あります。「亡くなった子供の日記を公開したい」「定年退職したら人生の回顧録を本に出したい」といった類の要望です。

わたくしとしては、お薦めもお断りもしていないのですが、ただひとつだけわかっていることがあって、いわゆる回顧録なるものを出版したひとは出版したのち急激に老けこんでしまうということです。いっそ若い頃の赤裸々な恋愛日記なんていかがですかと提案することがあるのですが、そういうのはあまり出したがらないです。

それでも回顧録を出版したいひとに対しては、10冊だけ出版することを勧めています。1冊は手許に、2冊は国会図書館(本館と関西館)に、2冊は地元の図書館に、あとの5冊は知己の方に。この5冊を誰に渡すかがポイント。それくらいがちょうどいいと思います。

 

2019年も暮れようとしていますが、今年はとにかくいろんなことが起こった一年でした。

わたくしごとでは、最愛の子が無事に就職してくれたり、どきどきするような仕事がやってきたり、素敵な出会いがあったり、それからなんとか滑り込むようにもギンセイシャの仕事もなんとかかたちにすることができました。

それでは、よいお年をお迎えください。

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「昭和丙子臺灣(台湾)屏東之旅」の発刊について

 

 

銀聲舎(Ginseisha,Japan)からのお知らせです。

 

Ginseisha,Japanでは、このたび1936年(昭和11年)に屏東(現:台湾屏東県)を旅行した和歌山県人の日記の翻刻を行い、リトルプレス形式で発刊いたしましたのでお知らせします。題名は「昭和丙子臺灣(台湾)屏東之旅」、頒価は300円です。一般の書店販売は予定しておりませんが、ときおりフリーペーパー形式によるリトルプレスを設置している場合がありますので、その時は是非手にとってお読みいただければと思います。

 

日記の内容は、当時の台湾南部の産業や観光、そして高砂族の話題、当時世間を揺るがした226事件や阿部定事件、和歌山市会解散といった話題、そして屏東の花柳街事情を中心にしたもので、和英対訳の解説文のほか、戦後の白浜温泉を牽引した台湾人実業家に関するノート、完全オリジナルの屏東市の観光案内、そして近代建築の有効活用を目指すGinseisha,Japanらしく「屏東市近代建築マップ」(上記の画像)も掲載しています。


英文翻訳に際してはWinesap Translations LLCのPaul Makino様の、台湾人実業家に関する情報は秘宝館研究家の中谷まや様の協力によるもので、この場を借りて厚く感謝を申し上げます。

なお「昭和丙子臺灣屏東之旅」の詳細な解説文である「ビブリオグラフィ」は、耽美探究誌「薔薇窓」29号に掲載しております。こちらは掲載しておりません。

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昭和丙子台湾屏東之旅 - history does not remain

 

 

この1年ほど、ぼくは戦前に台湾南部の屏東を旅した日記を翻刻していました。

悪筆のため片仮名すら読みづらく判読に難儀したことと、当時の事情がわからないことから、1行解読するのにまる1日かかることも往々で、デジタル化はかなり難渋しましたが、不完全ながらもなんとか翻刻することができました。

この作業に携わってつくづく思ったことは、歴史は残らない(とりわけ、稗史は残らない)ということでした。アーカイブという考え方が欠如していた時代ということかもしれませんし、わざわざ残すほどのものではないと判断されていたこともあると思います。原爆体験といったように、社会的意義や評価が明確なものであればともかく、自身の私的な行動記録は残さないという発想もあるかもしれません。

 

ところで、今回翻刻した日記には、台湾原住民の興味深い話がいくつか出てきました。

ただ、その内容の詳細や真偽を確認することは非常に難しくなっています。その理由は主にふたつあって、一つは、戦前の台湾のオーラルヒストリーを集めることが、もはや絶望的になってしまったことです。1990年代であれば日本語を母語とした世代がまだまだ活躍していましたが、2010年代後半の現在、台湾ではいわゆる「懐かしい日本語」を聞く機会はほとんどなくなってしまいました。この日記の翻刻に際して台湾を何度も訪れていますが、「レトロ」で知られる新竹の内湾線を訪ねたとき、ここにあるものは実は戦後、1945年以降に設けられたものばかりであることに気づかされ、時代の遠さを実感させられたのでした。

 

(新竹内湾にて。日本風の建物ですが、こちらは戦後の物件です。)

 

(霧社事件時に台湾原住民に宛てて書かれた伝単。すべて片仮名で書かれています。)

 

あともう一つ、当時のほかの記録をあたろうと思ったのですが、なかなか出てこないのです。

確かに台湾原住民は蕃童教育所で日本語教育を受けてはいましたが、その水準は片仮名が読み書きできる程度で、文学なり歌謡なりの自らの記録を残すという水準ではなかったようです(霧社事件当時、台湾原住民に宛てて空中からばらまかれた伝単(チラシ)を見ると、その水準が推測できます)。

実際、当時の台湾原住民の記録は、台湾総督府や日本人の民族学者の調査によるものがほとんどで、たまに「台湾の奇習」と称して面白おかしく書かれているものもありますが、なんとも言えない内容です。

20世紀は近いようで意外に遠い時代であることを実感し、また、当時の記録は真偽を確認しようがないというのが実情だったりするわけです。

 

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松下メモリアル - Matsushita Memorial

以下のテキストは、以前「和歌山市民のための和歌山観光ガイドブック」(2014年発行)に書いたものですが、読みたいという方が何件かありましたので、再掲いたします。

2019年1月現在、和歌山市立児童女性会館は取り壊され、和歌山大学松下会館なども取り壊しを視野に検討されています。なお、本文で「建具が和歌山市内のリノベーション物件で再利用されている」とあるものですが、和歌山市十一番丁にあるスペインバル「ヌメロオンセ」のエントランスが該当します。

 

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パナソニック創業者・松下幸之助氏は、出身地である和歌山市に数多くの公共施設を寄付した。氏が寄付した物件は小ぶりながらもとてもセンスが良く、今なお丁寧に使われているところが多い。一部取り壊された物件もあるが、その施設で使われていた建具が和歌山市内のリノベーション物件で再利用されていることもあり、腰をすえて探してみれば、多くのメモリアルを見つけることができる。

「松下」の名前が冠せられた最も有名な現存物件は、大浦街道沿いにある和歌山市立松下体育館である。1970年に建てられたエッジの効いた設計であり、翌年に和歌山県で開催された「黒潮国体」では柔道の会場となった。この建物にはひとつの不思議がある。体育館に入り、天井を眺めていると、壁面沿いには茶色いガラス瓶が逆さまにびっしりと取り付けられているのである。前年にビートルズの日本公演が体育施設で行われたことを意識してか、吸音効果を期待したものと思われる。
また、岡公園に隣接する和歌山市立児童女性会館は、1963年に氏からの寄付や和歌山城の登閣利益を充てて設けられた社会教育施設である。この建物もなにげにすごく、玄関には保田龍門による彫刻「母子像」(「母と子」は保田龍門がよく取り上げたモチーフ)が、一階ロビーには松下幸之助氏夫妻のレリーフが設置されている。かつて1000万円相当(当時の大卒初任給は2万円弱)の電化製品の寄付を受けて設けられた電気室も存在したとのこと。当時の市長は「白亜の“夢の殿堂”」とよんだそうだ。
このほか、和歌山県立図書館に隣接する和歌山大学松下会館紀伊風土記の丘松下記念資料館は学びの場として、和歌山城内の茶室・紅松庵は茶会の場として、氏の出生地である千旦に設けられた松下公園はスポーツの場としてそれぞれ設けられており、隣接する氏の墓所には松下政経塾の塾生がときおり訪れている。
最後にトリビアをひとつ。千旦駅南側にある松下公園に隣接する松下幸之助の墓所に参る際、入口の名刺受けに名刺を入れておくと、後日松下家から丁重な礼状が届くのである。

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和歌山信愛大学 - wakayama shin'ai college

和歌山信愛大学が和歌山市の本町小学校跡地に平成31年4月に開学されることになりました。

学部は教育学部(初等教員の養成)で、入学定員は80名。和歌山信愛大学の母体は、和歌山市ではお嬢さま学校(短期大学・高等学校・中学校・幼稚園)として知られていますが、今回設置する大学は男女共学とのことです。

 

ところで、教育や医療など、ライセンスを持つ学部の設置はとても大変で、たとえば教育学部の場合、大学をつくっていいのかを審査するために設けられた設置審(正式には大学設置・学校法人審議会)を通すのと同時に教職課程認定を受ける必要があります。いずれも文部科学相ですが、前者が高等教育局で、後者が初等中等教育局の管轄(平成30年9月現在。文部科学省では来たる10月に組織改編が行われます)。平成31年4月は教育職員免許法が大きく変わる年なので、教職課程認定はちょっと面倒です。

 

設置審についていうと、昨年度の加計学園の獣医学部設置に際してなかなか設置に◯をつけず有名になりました。「政治力でゴリ押ししようとしても、なかなか通してくれない」という印象を持ったかもしれません。実際設置審をパスできずに設置できなかった大学(や設置を取り下げた学校法人)もそれなりに多いのです。

ただ、仮に設置審で◯となっても教職課程認定で✕がつくことも往々で、しかも教職課程認定の場合、原則シラバスの差し替えは認められないため、短い期間で教員を差し替える必要があり、そのため大きく奔走することとなります。

 

今春雄湊小学校跡地に設立された東京医療保健大学(和歌山看護学部)は順調に滑り出しました。次は和歌山信愛大学で、和歌山市中心部にはさらに3つの大学が入る見込みで、和歌山市外にも1つの大学の設置が計画されているそうです。

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